鳥頭山(オドゥサン)統一展望台
ソウル市内から漢江に沿って北側に自由路を約47km、車でわずか50分足らずで韓国の分断現場のオドゥ山統一展望台に到着します。この展望台は、軍事境界線と隣接している、軍事的に見れば非常に重要な西部前線の要所である。
昔から軍事的な要衝地帯である、この統一展望台は高句麗と百済の主導権争奪戦が激しかった関弥城(広開土大王碑に書いてある)の城跡としても有名です。海抜118mのこの高地は現在は韓国側の最北端に位置し、西部戦線の砦になっています。
駐車場から入口には、緑と赤に色分けされた手摺つきのスロープが完備されている。
92年9月に開館した統一展望台は、4階建てで内部では、映像による北朝鮮の国境付近での宣伝活動の説明や、北朝鮮内の文化や自然を紹介した写真が展示されている。
本館右横にあるスロープ。傾斜も緩やかで車イスやベビーカーも安全に入館できる。
古堂(雅号) 曹晩植先生の銅像
1883年2月1日平安南道の江西で生まれました。平壌(地名)崇実中学校に在学中キリスト教に入門し、1908年中学を卒業し、日本に行って正則英語学校で3年間英語を修学する時インドの独立運動家であるガンディの無抵抗主義と民族主義に感動を受けました。1913年明治大学 法学部を卒業し、たくさんの独立指導者が海外へ行ってしまったこの苦難の土で愛国愛族活動を行いました。
3.1独立運動後は投獄され、定州の五山学校校長、平壌YMCA総務、朝鮮物産奨励会の初代会長、平壌サンジョンヒョン教会の長老、新幹会中央委員兼平壌支会長、崇仁商業学校の設立理事長、関西(韓半島の北西部地方)体育会長、朝鮮日報社長などを歴任し、民族を指導し、日本に対する非暴力抵抗運動を展開しました。独立後、北朝鮮の民族指導者として朝鮮民主党を設立し,自由民主統一国家を樹立ために命を捧げました。北朝鮮の同胞を捨て、1人では越南することができないという決心は先生の殉国で守りました。それが1950年のことです。1970年に建国勲章 大韓民国章が授けられました。
参考資料より
在以北父祖神位
朝鮮戦争(韓国では韓国戦争と言う)で北に家族や先祖を残し離別してしまった人をしのんで、建てられた碑です。
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韓国軍の軍服 | 北朝鮮の軍服 |
1階の展示コーナーにある両軍の人形。
館内3階には、展望室になっており最近の北朝鮮地域を撮影した映像で分断の現場と北朝鮮の人々の生活を説明している。たとえ天候が悪い時でも分かりやすい様に、現在地の地図(最長3.2km、最短460mの距離内にある)が展示されている。
統一展望台から川の向こう側が北朝鮮(臨津江)です。この日は、うす曇でしたが対岸の見張り塔や田畑、建物などが見えました。外の展望台には、高性能望遠鏡(20倍率)も完備されており有料で見ることができる。手前が韓国側の見張り塔です。川を挟んで昼夜問わず脱北者や北朝鮮からの攻撃に備え厳しい監視下にある。
現在も朝鮮半島は、休戦状態であるため高速道路の漢江に沿って適度な間隔で建っている韓国軍の監視小屋。日本では見られない物だけに緊張感がある。