名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城です。
江戸幕府が体制を確立する激動の時代に、濃尾平野を見晴るかす高台に忽然と巨大な城郭が誕生しました。助役大名などのエピソードを交え名古屋城築城をご紹介します。

歴史
尾張国の東半分は永正15年(1518年)以降、駿河国の守護今川氏の支配下に置かれました。
そして、今川氏は最前線である現在のニ之丸辺りに那古野城を築きました。
尾張国勝幡城主織田信秀(織田信長の父)が、享禄5年(1532年)に奇策によって那古野城主今川氏豊を追放し、ここを居城としました。
信秀はその後、那古野城の南方に古渡城も築き、名古屋での勢力を強めていきました。 信秀のあとを継いだ信長は、清須城に拠点を移し、天下は統一に向けて動き出していきます。
信長が清須から小牧、岐阜、安土と居城を移していく中で、役割の薄れた那古野城は天正10年(1582年)ころに廃城となり、その跡地は雉が多く住む野原となったと伝えられています。

大阪への備えと天下普請
時は流れ、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の勝利を経て江戸幕府を開いた徳川家康は、大坂城の豊臣秀頼との武力衝突に備えて、城の整備を進めました。
慶長6年(1601年)の膳所城に始まり、加納城、二条城、伏見城、江戸城、彦根城、駿府城、篠山城、丹波亀山城などの築城・拡張を行ないました。これらの多くは、秀吉恩顧の外様大名を動員した天下普請の城です。
また、姫路城、伊賀上野城、桑名城などは家康の命令を受けた城主により大規模な拡張が行われました。
これらの城が、大坂城包囲網を形成していきました。

東海道のかなめ尾張徳川家の創設
関ヶ原合戦の後、当時の尾張国清須城主(24万石)の福島正則は安芸国・備後国(49万8千石)へ転封となり、その後へ武蔵国忍城主松平忠吉(徳川家康第4子)が配されました。
関ヶ原合戦の功労者である外様大名は加増して遠国へ転封し、重要拠点には一門・譜代大名を置くという家康の大名配置政策の典型です。
しかし、松平忠吉は慶長12年(1607年)に23歳の若さで病没したので、清須城には、甲斐国府中城主徳川義直(徳川家康第9子)が封ぜられました。これが、御三家筆頭尾張徳川家の始まりです。

名古屋城築城の決定
徳川家康は、豊臣がたとの緊張が高まる中、尾張国を東海道の一大防衛線として整備を進めました。
まず、慶長13年(1608年)に家康が伊那忠次に命じて木曽川東岸に約50キロメートルにわたり築いた堤防「御囲堤」は、尾張領内の治水だけでなく、大坂から攻め寄せる敵に備える防塁となるものでした。
次いで、尾張国の中心である清須城が問題となりました。清須城は大軍を収容できる規模がなく、五条川に臨む低地にあるため、しばしば水害にも見舞われていました。
このため、家康は清須城に代わる新城造営地を調査し、名古屋(那古野)、古渡、小牧の三候補地の中から名古屋を選びました。そして、慶長14年(1609年)11月16日に駿府において家康は名古屋新城の築城・名古屋遷府を正式に発令しました。これを受けて名古屋では早速、工事の位置決めである縄張りが始まりました。
名古屋城を築く場所は、名古屋台地の西北端で、台地の西面と北面は高さ10メートルの断崖になっていました。そして、断崖の下には泥沼が広がり、その向こうには庄内川、そして木曽三川が流れる天然の要害でした。
一方、南と東には大規模な城下町の建設が可能な広がりがあり、その先は東海道と熱田湊となっています。名古屋城築城は、軍事面だけでなく文化や交易の栄える新しい都市の誕生を予感させるものでした。
年が明けて、慶長15年(1610年)1月14日、将軍徳川秀忠が、西国の20大名に名古屋城普請(土木工事)の助役を命じました。

助役大名の苦悩
慶長15年(1610年)閏2月、助役を命じられた大名達は名古屋へやってきました。 当時、秀吉恩顧の大名は、ここ数年のたび重なる天下普請により、経済的にも非常に苦しい状況となっていました。今回、助役を命じられた福島正則(広島城主)と加藤清正(熊本城主)、池田輝政(姫路城主)の会話が伝えられています。

福島正則:このごろ城普請の手伝いが頻繁だ。江戸や駿府は将軍や大御所(家康)の城だから納得できるが、名古屋は息子の城ではないか。こんなことにまで駆り出されては我慢できない。

池田輝政:(沈黙)

加藤清正:お前様は、考えずにものを言うから困ったものだ。名古屋のことが我慢できないなら、さっさと国へ帰って謀反の旗揚げでもしたらどうだ。そんな力がないなら、黙って命令に従うしかないだろうが。

複雑な丁場割
助役大名は、それぞれの所領の石高に応じて普請場を割り当てられました。
各大名の分担場所(丁場割)は細分化され、堀の堀削、盛り土、石積みをお互いに競わせる仕組みとなっていました。
普請場でいさかいが起こると、双方が厳しく罰せられるので、各大名はこうしたトラブルを起こさないよう神経をすり減らしていました。それでも、現場は混乱を極めており、着工早々の3月には、黒田長政(助役大名)と平岩親吉(幕府側)の家来同士が言い争いを起こし、両成敗となっています。
丁場割に際し、加藤清正は自ら進んで天守台を受け持ちました。清正が築いた天守台は、20メートルもの高さに美しく積み上げた高石垣であり、その上面は天守閣1階平面と同じ形、大きさの長方形になっています。
これは、加藤清正の石積み技術が卓越していたことを示すもので、史上最大の天守閣の建築もこの技術があって初めて可能となったと言えます。

石垣の刻文
名古屋城の石垣には、丸に三角や扇子、軍配などユーモラスなしるしがみられます。
これを『刻文』といい、築城工事を分担した大名と家臣のしるしです。苦労して運んだ石を他の大名家のものと間違え、無用なトラブルが起きることのないようにつけたものです。

堀・石垣の完成
慶長15年(1610年)閏2月下旬から、助役大名は、土工事(堀の開削、盛り土)に取りかかりました。各大名は、工期を守るだけでなく、他の大名に遅れをとらないために、幕府が示した基準をはるかに上回る資金と人員を投入しました。
また、土工事が進む一方で、石垣用の石材の調達も緊急の課題でした。岩崎、赤津や篠島など尾張、美濃、三河、伊勢の近在はもとより、遠く紀伊、摂津、播磨、讃岐(小豆島)、肥前(唐津)にまで及んだといわれています。
遠方で切り出された石は、石船とよぶ大きな船によって海路を熱田まで運びました。そこからの陸路は、修羅と呼ぶ木橇に石を載せ、丸太の上を転がしながら普請場まで何百、何千もの人夫が引いたと言われています。
各大名は、5月には普請場近くの石寄せ場への石の運び込みを終えています。
石引にまつわるエピソードがあります。石引きの途中、修羅から落ちた石は、落城につながると言って嫌いました。そのため、その石は石垣に使うことはなく、その場に放置したそうです。
また、加藤清正は、美しく着飾った小姓とともに大石の上に乗り、綱引きの人々をはやし立て、見物人に酒を振る舞ったと伝えられ、清正の石引きとして有名です。これは、大阪城築城の際の秀吉の故事に倣ったと言われ、秀吉を慕う清正の思いがうかがわれます。
普請場では、土工事が6月には出来上がり、休む間もなく石垣の基礎となる根石置きが始まりました。
そして、石垣は大勢の人夫を使ってまたたくうちに積み上がっていきました。積み始めから3ヶ月も経たない8月27日に、加藤清正は天守台を完成させています。
そして、他の大名の分担場所も順次完成し、12月には、本丸、二之丸、西之丸、御深井丸のほとんどの石積みが完了するという驚異的な早さでした。
大名は、普請が終わり次第帰国しました。加藤清正は、熊本への帰国の際、大坂城で豊臣秀頼に拝謁しています。名古屋城の普請を終えた清正の胸中はどのような思いで満たされたのでしょうか。

天守造営
幕府は、天守閣や隅櫓などの作事(建築工事)を普請に続いて行いました。作事奉行に小堀政一(遠州)や大久保長安を始め9名を任命し、現場の指揮は、大工棟梁の中井正清が執りました。名古屋城天守閣は、延床面積が江戸城や大坂城をも上回る史上最大の天守閣です。資材は、のちに尾張領となる木曽山の檜、椹などの良材を用いています。伐り出された材木は、筏を組んで木曽川を下り桑名に集められた上で名古屋へ運ばれました。木曽川の洪水で材木が流失してしまったこともあったようです。
天守閣も、着工からわずか2年後の慶長17年(1612年)12月頃には完成しました。
名古屋城天守閣は、桃山時代の天守閣とは異なる層塔型と呼ばれる新しい構造になっています。安定感の中にきめ細かな意匠の凝らされた外観は、名古屋城独特の美しさをたたえています。
天守閣のいただきには、金板でおおった一対の鯱が載っています。鯱には水を呼ぶという伝説があり、火除けのため天守閣上に載せるようになったと言われています。
名古屋城の金鯱には、慶長小判で17,975両分(金量約270キログラム)の金が使用されたと伝えられています。
また、破風や鬼板などに三葉葵紋を付け、家康の城という格式を示しています。

連結式天守閣
天守閣(5層5階地下1階付)は、南側の小天守(2層2階地下1階付)とそれぞれの地階を橋台で結ぶ連結式天守閣の形式となっています。
出入り口は厳重を極め、天守閣へは小天守を通らなくては入ることができません。天守閣、小天守とも入口は上部の石落しと総鉄張の扉を備えた門となっています。また、槍の穂先を並べた剣塀や隠狭間など、随所に敵の侵入を防ぐ備えがほどこされています。
当初の設計段階では、天守閣の西側にも小天守を設ける予定であったらしく、天守台西面の石垣上部に出入口を塞いだ跡が残っています。
天守閣のある本丸では、同時に隅櫓、多門櫓などの建築も行われ、天守と櫓で囲む堅固な構えを築きあげました。
また、本丸には武家書院造の代表的建築となる本丸御殿が天守閣や櫓に引き続いて建築され、慶長20年(1615年)初めに完成しています。本丸御殿内部は、狩野貞信、狩野甚之丞を始めとする幕府御用絵師の筆による障壁画群が室内を彩っていました。

参考資料より

車イス、ベビーカー専用エレベーター
天守閣へは屋外からエレベータでご入場できます。
正門・東門には、貸出し用の車イスを用意してありますので、改札窓口にお尋ねください。
ただし、数に限りがあり、予約はできませんのでお待ちいただくこともあるそうです。
多目的トイレは5ヵ所ありますのでガイドマップか窓口でご確認ください。
なお、天守閣はペットの入場を禁止させていただいております(盲導犬、介助犬、聴導犬は入場できます)。

1階で天守閣内エレベータに乗り換え、1階から5階までエレベータをご利用いただけます。

大天守閣の1階の屋根つき通路からエレベーターに乗り換えて上階へ行きます。

5階から天守閣展望室までは階段のみなので階段を上れない方は展望室へは行けません。

北側からの眺め
マンションや住宅が多い

南側からの眺め
高層ビルが多いオフィス街

東側からの眺め
高層ビルが少なく城内の緑が